新年、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願い致します。

平成31年 元旦

お客様各位                               

税理士法人 稲田会計   

株式会社 経営開発センター

グループ代表  稲田  実 

代表取締役   野崎 悦雄

専務取締役  鳥澤 靖幸

                           

 新年、明けましておめでとうございます。

 旧年中は大変お世話になり有難うございました。本年も何卒よろしくお願い致します。

 

 平成30年は、甚大な自然災害が多く発生した年でした。4月9日鳥取県西部地震(震度5強)、6月18日大阪府北部地震(震度6弱)、9月6日北海道胆振地方東部地震(震度7)が発生しました。また6月28日から7月8日まで西日本、近畿、北海道、中部地方を豪雨により、320数名の犠牲者を出しましたが、その後7月から9月まで4度の台風が日本列島を襲い、相次ぐ自然災害の影響により、工場の稼動停止や空港の一時閉鎖など財輸出の停滞や訪日観光客の減少によるインバウンド消費の減少などにより経済面では大きなマイナス成長となりました。

 10月以降において良好な雇用・所得環境を背景に財・サービス消費が緩やかに回復すると共に、企業の合理化・省力化投資や研究開発投資などの設備投資が底堅く、また日観光客も持ち直し、今後インバウンド消費は拡大が続く見込みであります。

 平成30年(予測)の日外国人客数は3100万人(平成29年は2800万人)となり、今後アジア新興国の所得拡大、宿泊施設増加など受け入れ環境整備の進展等、インバンド需要は引き続き堅調に推移すると思われます。(2020年東京オリンピックの年には4000万人、8兆円の経済効果の見込み)

 家計部門をみると、企業が人件費の拡大に前向きになってきており、賃金の上昇ペースはやや高まる方向。これまでのように雇用者数の増加が家計所得を押し上げるだけでなく、労働者一人一人の賃金が上昇する、より実感の伴った所得拡大へとシフトするため、個人消費にも徐々に明るさが出てくる見込みです。

 

 一昨年1月に誕生したトランプ政権は内政問題では民主党との対立はより厳しくなると思われますが、中国政策には足並みをそろえているようです。根底には中国が民主化とは逆の方向に向きを変えていることにあり、知的財産の侵害や人権問題、高度技術を盗み取ろうとする中国の振る舞いは目に余るものとみております。貿易赤字の半分が対中国取引で占めており、これの解消と軍事的なハイテク技術の漏えいという脅威の解消のための、国家の威信をかけた動きとなっています。

 米中関係悪化の長期化による中国経済の減速を背景に、外需の景気牽引力は低下していくものの、国内需要に牽引される形で景気回復基調が続いています。 

 しかしアルゼンチンG20後の米中首脳会談により、貿易戦争は一時休戦、衝突回避とのことですが、「90日」猶予後再燃するかどうか、そして日米貿易摩擦による自動車関連の関税引き上げに踏み切れば輸出に大きな影響を及ぼすことになり、予断を許さない状況です。

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 昨年(平成30年)10月2日、播磨経営倶楽部におきまして、仙台市にある㈱月記を訪問し、“顧客価値の創造・究極のサービスとは何か”を学ぶことができました。

 同社は、法政大学大学院教授 坂本光司先生の著書「日本でいちばん大切にしたい会社」にも取り上げられていますが、関東以北でナンバーワンのシェアを誇る葬儀社で、その事業の使命と役割を果そうと、実に敏速に心のこもった対応をし、その様子は地元ニュースで何度も取り上げられました。同社の感動ある究極のサービスをご紹介します。

 

 13時30分、清月記に到着し、菅原裕典社長のレクチャーを受けた後、会社見学を行いました。菅原社長の2時間を越える講話に受講者は自然に感動を覚えた次第です。

 18時から清月記直営レストランにて菅原社長を交え食事会の開催となりました。食事の間も熱心にお話をいただき、また私たちの声に耳を傾け、丁寧に応えて頂きました。お忙しい菅原社長が午後1時から8時半まで時間を割いて頂き、心温まるおもてなしを受けました。

 

 同社は葬祭業を営み、現在創業35年を経て年商43億円、正社員数300名、仙台市と石巻市に21の会館と5つの仏壇ギャラリーを有し、託児所、教育事業、飲食事業、ウェディングサロン、墓石事業、ハイヤー事業など多岐に亘るサービス、“ゆりかごから墓場まで”“ノーと言わない究極のサービス”を目指しています。

 

 2011年3月11日、東日本大震災は清月記の全ての施設や社員の家族にも襲い掛かりました。

 甚大な被害を受けたにもかかわらず、その後5ヶ月以上にわたり、全社一丸となり不眠不休で被災された地域住民に奉仕し続けた会社が清月記です。(宮城県の被害、死者1万4百2人、行方不明者1324人、全壊・半壊家屋23万7926戸)

 

 ここからは少し長くなりますが、坂本光司先生の著書「日本で一番大切にしたい会社」と菅原社長の著書「東日本大震災 葬送の記 鎮魂と追悼の誠を御霊に捧ぐ」から引用し、同社の究極のサービスをご紹介しますので最後までご一読いただければ幸いです。

 

 震災直後、菅原社長は、全社員の無事を確認するとともに、震災直後の状況をテレビで知り、これから迎える大きな困難との戦い(葬儀に携わる者の大きな使命と役割を果たすべく仕事)に備えました。

 同日午後4時、高松市棺メーカーへ1000本の棺を発注する。本社機能の回復のため大型発電機の確保とトイレの水の確保、セントラルキッチンの稼動(食事確保)のための水とガスの確保、これからの長い闘いに必要なガソリンの確保に務める。  

 ほとんどの社員は家族の無事を確認していましたが、それでも心は落ち着かないはずの社員に向かって「明日から厳しい仕事になるが、何とか出社して欲しい。家のことも心配だろうがみんなの力が必要だ。力を合わせなければこの危機は乗り越えられない」と言う。口にするのが辛いメッセージでした。

 事態があまりにも過酷過ぎる、自宅が壊れたり、家族が不安に脅えていたりすると家族のそばにいてあげたいと思うのが当然です。私たちの仕事は災害が多ければ大きいほど休めない仕事なのです。私たちには失われた命をしっかりお見送りする使命があるのです。

 3月12日 余震が続いているなか、本社の全社員が揃っていました。みんなの顔を見て、うれしさというよりも感謝の気持ちがこみ上げてきました。一人一人の社員を支えていたものは、「使命感」という言葉に尽きるのではないでしょうか。

 12日早朝、市役所に着くと役所はパニック状態。全体の被害状況が見えてこないなかで遺体がどんどん引き上げられてくる。担当者が棺の手配について1,000体用意していることを伝えると一瞬安堵される。宮城県葬祭業協同組合において、対策本部を清月記本社に設け本部長に菅原社長が任命され、仙台市との間で連絡協議会を組織し、素早い組織体制ができました。

 2004年に仙台に葬祭場を持つ会社が、高い確率で起こるであろう地震に見舞われた時に備え、指示系統を集約し皆で力を合わせる体制作りのために「連絡協議会」を組織していました。その後仙台市との間で防災協定を結び、防災訓練を行っていたことが功を奏したのです。

 

 対策本部の清月記に全国から棺が到着し始めます。到着した棺を組み立て、県内22か所に設置された遺体安置所に対策本部から届けます。自衛隊や警察、消防の人たちが見つけた遺体は、施設に収容され、検死が終わるとすぐに納棺し、その後火葬場へ輸送します。 

 清月記の社員は3月30日には22か所の遺体収容先に出かけ、6605本の棺に遺体を納めたのですが、火葬場の処理能力が追い付かず、火葬できない遺体は仮埋葬の形で自衛隊がその業務に当っていました。

 3月末日より自衛隊が撤退したため、仮埋葬の業務は民間が担うことになり、4月4日から石巻市内の仮埋葬を清月記が受けることになりました。この仮埋葬の仕事は重機で人間の背丈ほどの穴を掘り、棺を穴の中に一体ずつ置き納めていきます。これまでの葬儀の仕事とは違って体力も時間もかかる仕事でした。

 しかしこの仮埋葬より困難を極めたのが、5月に入ってからの遺体の掘り起しでした。本来2年以内を目安に掘り起こす予定でしたが、「一日でも早く火葬にしてほしい」との遺族の意向が強く、行政もこれに対応することになったのです。そしてその業務は清月記に任せることになりました。

 遺体の掘り起し作業は、臭いがものすごく、棺の中は水や血液、脂がたまっており、それらを抜き取り、遺体を新しい棺に納め直し、火葬場の横のプレハブに一晩安置し、翌日火葬するという流れでした。感染症などが心配されるため防護服を着て行います。通気性が良く動きやすいものですが、朝着たものを昼食時に脱ぐと午後には着られないような状態になっていました。特に梅雨と梅雨明けの大変な暑さの中で行われた作業は過酷なものでした。

 社員は現場の石巻市から仙台の自宅まで1時間半かかり、帰宅はいつも零時近くになり、それでも翌日は朝6時に出社し、6時半に出発するといった毎日でした。

 菅原社長は朝礼時に缶コーヒーを配りながら、「今日も事故なくやってくれるな。とにかく最後の最後まで無事故・無災害でいこう」と朝礼で話し、社員を見送りました。この掘り起しと火葬の仕事は8月17日まで続きましたが、社員は毎日遅刻もせず、欠勤もせず、積極的に働いてくれました。

 「創業以来25年間、私は好き勝手にやってきましたが、こんなにも心強い社員はいない。みんな、ここまで成長してきたのかと思うと、毎日涙が止まりませんでした。遺体掘り起しと火葬の仕事は過酷で、できれば避けたいと思うでしょうが、『決してノーと言わない企業文化』がここまで高まったのかと社員に感謝する毎日でした。

 これまで上場するとか、業界でいちばん大きい会社にするといったビジョンでなく、仙台の人々に『清月記があってよかった』と感じてもらえる企業を作りたい、この思いで経営を行ってきたことが、本当に脈々と社員みんなに浸透しているんだなということを思い知らされました」と菅原社長は目を赤くして話してくれました。

 ただ今も懸念することは、メンタルの問題です。幸いにして今のところ心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状を訴える者はいませんが、いつ残像と臭いの記憶に悩まされるかも知れません。残像と臭いの記憶との闘いはまだ終わっていないのです。

 

 震災から2か月ほど経つと仮設住宅への入居も始まります。ようやく最低限の「衣食住」が確保されつつありましたが、家族は遺体を火葬し、骨壺と位牌を手元に置くことができますが、仏壇が流され、「手を合わせる場所がありません」とそんな被災者の声に応え、早速京都の仏具メーカーにミニ仏壇1500基を、線香やロウソクを供える仏具一式を発注しました。その仏具メーカーは二つ返事で受けてくれ、1500基の仏具がかなりの速さで到着しました。

 5月22日500人の開眼供養を営み、無償で仏具を渡しました。6月5日も同様に500人の開眼供養を営み仏具を渡しました。その後要望があれば無償で渡し、1500基の仏具は直ぐに配り終えました。ミニ仏壇を受け取った人は誰も「これで毎日供養してやることができます」と感謝され、ホッとした表情を浮かべていました。

(後日談)

 菅原社長が仏具メーカーに仏具1500基の代金の請求を求めると、仏具メーカーは「うちの社長は清月記からもらってはいけない、と言っています」との返事がありました。そこで仏具メーカーの社長に連絡を取ると「東北にも沢山取引先がありますが、仏具メーカーとして何ができるかをずっと考えていました。その答えをくれたのが菅原社長です。感謝したいのは私のほうです。」その言葉に感動すると共に清月記という会社は多くの方に支えられている。そして私たちが思っている以上に日本中の人々が東北を支えようとしてくれている。

 

 菅原社長は1985年にお父様と始めた会社です。もともと父方の本家が葬儀社を営み、菅原社長は子供の頃から葬儀の現場を見て、葬儀社の社員のてきぱきとした言動に接し、遺族の方から頼られている様子を目にしていました。高校、大学と伯父の葬儀社でアルバイトを続け、大学卒業後業界で著名な名古屋の同業者のもとで1年の修行をし、仙台に戻り開業します。

 当時36の葬儀社があり、その中でも最後発の会社でした。菅原社長は業界の常識を破り営業活動を行います。戸別訪問や広告のポスティングなど積極的に始めました。お客様と接点を持てるよう、気楽な相談窓口になるように、仏具店を開きます。その目的は仏具を売って売上を上げることではありません。当時は葬儀がいくら掛かるのか、見当もつかない人が多く、葬儀社に見積りなど相談に行くというのも不謹慎な話という時代でした。菅原社長はお客様に包み隠さず、見積書を詳細に記入しお客様に渡しました。こうした対応が次第に評価されていきました。

 

 清月記の次のステップは、葬祭会館の建設でした。当時はまだ自宅やお寺での葬儀が主流で、葬儀を行うための斎場は全くありませんでした。初の試みで、リスクもありましたが、清月記はいち早く葬祭会館を建設し、口コミで葬祭会館のサービスが世間に知れ渡るようになると、お客様の要望が次第に高まっていき、その後次々と会館を建設していき、現在会館の数が21となっています。

 ちなみに会館に常駐するのは女性スタッフです。女性らしい細やかな心配りを行き届かせたいという思いと「暗い」イメージを払拭したいという思いがあるのです。

 遺族にとって気を休めることのできる会館の控室は、まるで一流のホテルや旅館のようなハイクオリティとなっています。

 またそれぞれの葬祭会館は地域貢献活動にも熱心に取り組んでいます。その一つが会館でのクラシックなどのマンスリーコンサートの開催です。菅原社長の「会館を地域内外の人々とのコミュニケ-ションを図る場、交流を図る場にしたい」との考えからスタートしたのです。

 

 菅原社長は次々と業界の常識を破る決断をしていきます。その一つが「葬儀費用の料金体系の明確化」です。葬祭業はクレームの多い業種です。その最大の理由は料金体系が明確化されていないこと。葬儀の際に遺族は混乱しており、その時お金の話をするのは不謹慎という気持ちもあって、後ほどお客様に不審の念を抱かれたり、強い不満を口にされたりすることがままあるのです。お客様の立場からすると一番欲しいのは、これがいくら、この内容がいくらと葬儀の金額と内容が明示されたカタログやパンフレットであり、持ち帰り家族と相談し決定することのできる情報なのです。これについても清月記は業界の先駆けだったのです。

 

 清月記の今日までの成長発展の最大の要因は「業界の常識は世間の非常識」とみなして古い習慣や制度を創造的に破壊していくと共に一人ひとりのお客様に対して「絶対ノーと言わない」感動サービスを提供し続けたことにあります。

 「葬儀社は遺体を警察や病院に引き取りにいく仕事があります。それがたとえ夜中や他県からの搬送でも清月記は絶対に断りません」、またご遺体の状況は様々ですが、家族にとってかけがえのない大切な人であることには変わりなく、「ご遺体の処置は病院でも警察でもなく、私どもの仕事です。できる限り復元するよう努力しています」と言います。この考え方が震災時のボランティア活動に結びついているのでしょう。

 

 料理事業を始めたのも、顧客の立場に立ってのサービスを考えたもので、葬儀の仕出し料理は「出せばいい」という形式的な料理ではなく、人それぞれの好みに合わせた料理を、ホテルと同じような位置づけのサービスを提供することで、故人を知る人々にもっともっと喜んでいただくためのものです。「四季の彩り 一乃庵」を開設し、葬儀以外にケータリングも行っています。

 

 また清月記は新しいニーズに対応し、新サービスの提供に挑戦しています。遺族の希望によりインターネットのサイトに訃報を載せるサービスを行っています。そこから弔電や供物、供花、香典の手配をすることができ、また日本全国から受け付けることができます。

 

 清月記の会館で行われる葬儀は世界のどこからでも葬儀や通夜の様子を、ライブでインターネットで流しています。インターネットの環境があれば、ライブで葬儀・通夜の様子を見ることができます。

 最近では、民事信託制度を活用した「エンディング信託」のサービスを提供しています。自分自身の葬儀を予め定め、それを清月記と金融機関に委託することにより、死亡後、家族に精神的・経済的な負担を軽減することができるのです。

 

 その他、「Kids Duo」を仙台市内に4校開設し、3才~小学6年を対象に、英語で預かる学童・幼児保育と教育を行っています。

 

 このような数々のサービスは多くの市民の評価を集め、清月記は、創業以来顧客数は右肩上がりで来ています。菅原社長は「サービス」について次の様に言っています。

 清月記はこれまで様々なサービスに挑戦し続けていますが、それはナショナルブランドを目指しているからであります。現在地域のナショナルブランドになりましたが、全国的なナショナルブランドに挑戦することです。

 私どもに「ニューヨークに花を届けてくれませんか?」という要望があれば、即座に「かしこまりました」と言える会社でなければいけないと思うのです。「そんな注文は受け入れることはできません」というのはこの仕事を自分で線引きし、これ以上の会社は作らないという意思表示をしていることに等しいのです。私どもが絶対に「ノー」と言わないというのは、自分たちが成長するためでもあるのです。

 弊会計事務所ではお客様の税務・会計業務やそれに関わる経営助言・経営支援業務の遂行にあたりまして、前述の㈱清月記様の究極のサービスに一歩でも近づけるよう、職員一同研鑚して参りますので、何卒宜しくお願い申し上げます。

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 今年は“己亥(つちのとい)”の年です。変化を求める気運が高まる時期ですが、調子に乗るとチャンスを失う年でもあります。しかし迷わず信念を持って継続すれば吉運が舞い込む年と言われていますので、じっくり足を据え物事に対処することが肝要かと思います。

 皆様方におかれまして、良き一年であることを祈念申し上げます。

 

 年頭に当たりまして、先ずは書面を持って謹んでご挨拶申し上げます。

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